昭和51年5月9日 特別奉修委員 ●②
信心を、あの、させて頂いておると、あの、神様の前に出ろごとしてこたえんときがありますね。
もうほんとに、あの、それが有り難いこととか、あの有り難くないこととか、まあ、色々ありますよ、その中には。
今日、私は朝からさっき、ある所から電話がかかってきてから、は、信心しよってどうしてそげなことがでけるね、て言うことで向こうも、向こうの方でも泣きながら電話がかって来ました。
もう私はそれを聞かせて頂いてから、とにかく、早うちょいと神様の前に、それはね、実際はあの、神様はどこにもござるとか、遍満してござる、ここからでもいいわけですよね、けれどもやはりご神前に出らなければ、落ち着かんということがあるですね。
ね、そう言う意味で今朝から頂くように、奉祭様式なんかの、自分方にお祭りをするとか、または、あの、より有り難い雰囲気をご神前に持たなければいけないことが、分かりますがね。
今日はもうとにかく、はよう、ここが切れて、早う、あのご神前に出ろごつしてこたえませんでした。
だからあの、しばらく私は拍手を打たずに、そのことから先にお願いしたりしておりましたから、もうほんとに信心しよって、ま、どうしてそげな心がけ、どうしてそんなことすんね、ちゅうごたあることですもんそれが、もう、ほんなこて、泣きだそうごたあるです。
まをぁ、ほんとにそれを、けれども、あの、神様のお願いあの、させて頂きよったらね、その、そう言うことをしでかしておる人の心のことがね、神様は、あの、哀れ、悲しい、ということですね。
そういいうことが、あの、でけた、起った、そういうことが起ったということじゃなくて、それを起こした人のことを神様は大変心を使うておられる。それが私が何か衝動的なものにこれ、感じたわけですよね。
もう次から次とお取次ぎ、もう切れ間がないから、まあ、それこそ、・・?ようなお取次ぎさっせていただいとるわけですよね。
とにかく早うご神前に出たい、まあ、そう言う意味でね、反対に、有り難い意味でもうとにかく、早うご神前に出てお礼申し上げにゃおられない、と言ういうようなときもありますね。
世界中の氏子におかげはやってあると、いうことを言われますが、私は今日、宮崎の佐田さんのお取次ぎをさせて頂いて、ほんとにそれを実感しましたね。
というのは、あの、神様のおかげと言うものは、降るようにあっているんですね、やはり、雨が降っているようにあってるわけです。
だから、それを受けるという事は、あの、氏子のほうであってね、頂きますとか、●②
あの、こんなことを頂くです、つき辺にほす、と言う字を頂く、これは肝と言う字ですよね。
ね、この月というのは、人間氏子のことだと、干す、というのは、心が乾びておる、心が乾いておるということです。
さあ、大祭からお参りして、有り難い有り難いときには、もうそれこそ、たまがるように売り上げが多かったげな、その後、有り難くなくなったら、こんどすとーっとおかげが落ちてしもうた。まぁ、そのことだけじゃなかったけれども、ま、わざわざ宮崎から、合楽までも、ただお参りの一念でお参りをしてきた、ここへ座った、もうそれこそ物が出なさらんぐらいに感動しとられる。素晴らしいですよね。合楽にはなんかそう言うようなものがあるです。
感動させずにはおかんといったようなものが、それはどういうことかと。おかげを頂かせずにはおかんということなんですよ、あれは。
ね、だから、なら、神様がおかげ頂かせずにはおかんという働きを示しておられるのだから、なら、こっちがおかげを頂かずにはおかん、と言う気持ちにならなければいかんということです。
そこでなら、私の心が、乾燥しとったんじゃいかん、潤うとらにゃいけない。
ね、だからそう言う意味で神様が降る様に、ならおかげは下さっておるけれども、いくら、ならおかげの種を蒔いてくださってもです、こちらがぱさぱさしとったんじゃ、芽が出らんのだ、花が咲かんのだ、実りにならんのだということが分かるですね。
だから私共は、絶えず自分の心ん中に、一つ潤いを持たなければいけない。
信心の喜びを感じれるために、色々様々な修行がいるということなんです。
ね、そして心が潤うとらなければ、言うならば心が和賀心になろうということに、いわば、精進しておらなければ、おかげは受けられないということが、分かります。
それは受けられんことはありません。どんなにぱさぱさしとっとでも、有り難くなかったても、あげんしてお取り次を頂いてから、お願いに来ておかげ頂くものはいくらもおっとじゃけん。お話も聞かん、改まりもせん、ばってんお願いすりゃおかげを頂く、そう言う手もありますよ。
けどそれでは、ほんなおかげにゃならんということ、それはもう神様に対する借金のごたあるこつ。
ね、けどもこちらの心の中に信心の潤いを頂いて、神様は限りなくこうやっておかげの種を蒔いて下さりよるとだから、だから、神様の働きだけでは、どうにもできんと言うことがわかりますね。神様がいかに種を蒔きなさったところで、どうにも仕方がない。
その種を氏子の潤うた心で受け止めるときに、初めて喜びの芽が出る、喜びの花が咲く、喜びの実りになる、ということになるんですよ。
ですから、結局、あの自分の心の中に、信心の潤いというものを頂くために、なら、大祓い信行などは素晴らしいことだということにり、朝のお参りということが素晴らしいことになり、ね、又ご理解を拝聴するということが有り難いということになり、そして、又、何とはなしに、家に帰ったら、あの、こう、潤いが消えてきたら、ね、私さっき佐田さんに言うんですよ、三杯のご飯を食べるものはね、あの、佐田さんじゃなかった、誰かに言うたですね、三杯ご飯食べよるなら、もう心の中に潤いがなか時にゃね、、一杯は神様にお供えするという気持ちで、あの、修行して御覧なさい、心の中にすぐ取り戻すことができる。それは、草花がしおれる、しおれた草花をあの、根元を叩いたり、焼いたりして水にけると、又、水を上げるようなもんだと、ね、だからこの辺のところが、あの、やはりいろいろな、ひとつの、おかげを頂いてくための、骨合といったようなものも段々体得がでけるんです。
ね、たとえば、ほんとにあの、ね、ご飯三杯食べよった者が、なら、二杯にして、一杯は神様にお供えさしていただこうという修行なんです。
その気になると、もう心の中に有り難いものが湧いてくるから不思議です。
ただね、三杯食べよったつば、二杯食ぶる、ちゅうだけの修行じゃいかんです。
ん、ようあんな人があるです、タバコ飲む人が、もう今日は修行と思うてから、十本飲むとば、五本にしゅ、しただけじゃ、なーにならんです。
自分が幾らか儲かるだけのこつです。その五本なら、十本なら十本吸うとば、五本にして、後の五本な神様のお供えしよ、ちゅう気にならにゃだめです。
神様には通じないです。ね、皆さん、そのそういう心に潤いがない時にはそういう、いろんな修行も、ま、それこそ、様々な角度から、あの、工夫するがいいです。
そして、心に潤いをいつも頂いとかなければ、神様が続けたくりにおかげ下さりよるおかげをね、うけとめることがでけんです。
ただお取次ぎいただいて、お願いをして、おかげを頂いたというのは、いくらもあります。
ね、そ言う言うおかげもいただかれるです、金光様の信心は、ね、皆さんの知っておられるように、ただ参ってきてから、お願いして、もうせっかく、お話しがありよったちゃ、もつっと帰るちゅうのもありますよ。ね、心にひとつも信心の喜びもなんも感じておられんばってん、ただお願いにくりゃおかげ頂くけんで、参って来よるとも、いくらもありますよ。
ね、けどもそれでは、ほんとのおかげじゃないちゅうこと。ね、こりゃもう、おかげの借金になるようなもんです。
ですから、心に潤いの受け物を作って、それに、種が蒔かれて、そして芽が、喜びの芽が出る、喜びの花が咲く、喜びの実りが実る、というその、収穫のおかげを、私は信心を頂いていくということであり、徳を受けて行くことになる、ということになると思うですよね。
もうほんとにそりゃもうね、あの、おかげ頂かんならんはずの時に、心の中に反対の心が起ってくることがあるんですよ。ですから、そう言うときには、自分の心の中にいま、潤いがなくなっとった時だと思うてね、一時前に前進することを止めて、潤いを受けることに、ちょっと心止めたらいいです。どうぞ。
(大坪かよこ)